石橋内閣発足時に岸信介を外務大臣に任命して、天皇陛下より認証を受ける際、昭和天皇は2度まで岸を外務大臣にすることに難色を示されたと言われている。昭和天皇は、岸が太平洋戦争開戦時に東条内閣の商工大臣だった責任を問われ石橋内閣の閣僚にすることに反対したと言うのが事の真相であった。岸の入閣に難色を示された昭和天皇に石橋は、岸が石橋内閣の基本政策であるアメリカ一辺倒ではない独自の積極外交と平和外交をすることに同意していること、また国会で大多数を占める元大政翼賛会議員の後ろ盾を持つ岸の力を借りなければ、安定した国政の運営が出来ないことを丁寧に説明して、漸く昭和天皇から認証を頂いた。石橋湛山が岸を外務大臣に起用し、湛山が病に倒れた時に岸を臨時首相代理に指名したのも、岸が石橋内閣の基本政策に同意したからであった。しかし、石橋湛山の後を受けて岸が内閣総理大臣に就任すると、石橋湛山から引き継いだアメリカ一辺倒ではない独自積極外交と平和外交、日中貿易の拡大、ポツダム宣言を受託した相手国であるアメリカ・イギリス・中国・ソ連の4ヵ国と同時に平和条約を締結するとした基本政策は、完全に反故にされ岸は、常にアメリカを向いた外交政策を展開した。そして、日本中が安保条約改定に猛反対する中で、1960年5月20日岸は深夜の衆議院本会議で反対する野党と自民党の非主流派を除く自民党の主流派だけで強行採決を行い、十分な議論を尽くすことなく日米安全保障条約の改定を決めてしまった。