昭和20年8月15日、日本が敗戦を受け入れてから77年の長い年月が流れた。敗戦後、間もなくアメリカを中心にした連合国軍が皇居のお堀端に面した第一生命ビルを接収して、そこに連合国軍総司令部(GHQ)を置いて、敗戦国日本の占領政策が開始された。GHQの占領政策が開始された頃は、GS(民政局)が占領政策を主導して日本を民主化するために、太平洋戦争を主導して来た軍国主義者や積極的に戦争に賛成した旧指導者層を徹底して公職から追放した。しかし、米ソ冷戦が始まり東アジアにおいて中国共産党が国民党政府軍を駆逐する勢いで勢力を拡大して行くにつれ、GHQの占領政策の目的が日本の民主化から日本を極東地域における防共の砦にすることへと変更を余儀なくされた。GHQの占領政策の目的が変更されたことで、戦争の放棄を謳った憲法9条を中心にした平和憲法の草案を作り、財閥の解体や農地解放や労働組合を作り、女性の参政権を認め日本の民主化を進めたGS(民政局)から日本の共産化を防ぐために大規模な労働組合員の追放(レットパージ)を行ったG2(情報・治安局)に占領政策の主導権が移された。GHQは昭和27年に解散して日本の統治権を日本政府に渡した後も日本の占領政策の中心を担ったG2(情報・治安局)は、CIAとして存続して、日本政府に強い影響力を持ち続けた。特に昭和30年に自由党と民主党の保守合同により誕生した自由民主党政権に対して、CIAから政治資金が流されたいたことは、アメリカ政府の公開記録から明らかになっている。戦後77年の間、日本の政治に現在のようなアメリカを中心にした外交政策から方向転換を図ろうとした機会が3度あった。最初は民主化を占領政策の中心に置いたGS(民政局)の政策に非協力的だった第一次吉田内閣(昭和21年5月~22年5月)に代わって日本社会党、民主党、国民協同党の連立内閣であった片山内閣(昭和22年5月~23年3月)とその後を受けて誕生した芦田内閣(昭和23年3月~同年10月)の時で、次は昭和31年12月、前年自由党と民主党が保守合同により自由民主党が誕生して、初めての総裁選で第2代自由民主党総裁になり、第55代内閣総理大臣に就任した石橋湛山内閣の時であり、最後は1972年9月29日に日中平和友好条約の基になる日本と中国の間で「恒久的な平和友好関係を確立する」ことで一致した共同声明に署名した田中角栄内閣の時であった。