昭和31年12月、前年に自由党と民主党の保守合同により自由民主党が誕生して、初めての自由民主党総裁選挙の決選投票で、僅か7票差で岸信介氏に勝利して第2代自由民主党総裁の座について、第55代内閣総理大臣に就任した石橋湛山は、アメリカと単独で結んだ日米安全保障条約に反対して、石橋内閣の基本政策の中心にポツダム宣言を受託した相手国であるアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4ヵ国との同時平和条約の締結と積極的独自外交と平和外交、中国との貿易の拡大というこれまでの吉田内閣がGHQの占領政策を主導して来たG2(情報・治安局)の意向に沿った反共産主義・日本を極東の反共の砦にするといった政策とは、全く違った独自の外交政策を内外に表明した。石橋湛山は、この新しい石橋内閣の基本政策を国民に理解してもらい、賛同を得るため予算編成の激務の合間に全国遊説を行った。しかし、72歳の高齢と全国遊説による過労により肺炎を患い療養を余儀なくされた。その時、湛山は医師から長期療養が必要であることを診断され、やむなく岸信介を臨時首相代理に指名して内閣発足から僅か65日で内閣を総辞職した。その後、健康を回復した石橋湛山は、日ソ協会の会長に就任してソ連、中国などの共産主義国との関係改善に尽力した。そして、内閣を総辞職した時から16年後に石橋湛山は、88年の生涯に幕を下ろした。昭和27年にGHQは、解散して日本の統治権を日本政府に引き渡したが、日本の占領政策を主導したG2(情報・治安局)は、その後CIAとして日本政府に強い影響力を持ち続け、昭和38年まで日本に社会党政権が再び誕生することを阻止するために石橋湛山の後、政権を引き継いだ岸信介をはじめとする歴代自由民主党政権に多額の政治資金を流し続け、政治的アドバイスを与えたことがアメリア政府の公開記録で明らかにされている。石橋湛山内閣が昭和31年に発足した時、日米安全保障条約に反対して、ポツダム宣言を受託した相手国であるアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4ヵ国との同時平和条約の締結が実現していたならば、現在の沖縄の基地問題や北方領土問題それに北朝鮮との間でも平和条約が結ばれ、北朝鮮に対する戦後賠償も行われ、現在の軍事的緊張状態は既に解消されていたのではないだろうか。しかし、現実的にはGHQが解散されていたとは言え、石橋湛山内閣当時は、今より遥かにアメリカ政府による日本政府への政治的圧力が強かった時代であり、石橋湛山が掲げた基本政策を実施することは、途方もなく実現が困難だったに違いない。医師から長期療養の診断を受けたことが、内閣総辞職をした理由とされているが、彼が発病した日(昭和32年1月25日)は、プレスクラブで外国人記者達に演説をすることになっていた。湛山は、その2日前に演説の原稿を書いている。その原稿の中に「私は、もちろんいかなる主義に対しても、もしそれが人類の幸福を増進するに役立つものであることが証明されるならば、これを忌み嫌う理由はないと信じます。(中略)たとい共産主義を国是とする国であろうとも、私は共存共栄の道を歩んで行くべきだと思います。」という一節もある。また、「私は俗に向米一辺倒というごとき、自主性なき態度をいかなる国に対しても取ることは絶対に致しません」とも書いている。湛山は、急性肺炎の発病によりプレスクラブで外国人記者達に対して、石橋内閣の基本政策や彼が2日前に書いた原稿を読むことは出来なかったが、石橋内閣の基本政策とプレスクラブで発表する予定であった原稿の内容があらかじめアメリカ政府に流されていたのではないだろうか。そして、石橋内閣の政策をプレスクラブで外国人記者達の前で発表する前に、アメリカは石橋湛山に圧力をかけて中止させたのではなかったか。なぜなら、石橋湛山が鳩山内閣の通産大臣だった昭和31年5月、閣議で中国見本市開催の件を提案し、決定したことがある。その時からアメリカは、石橋湛山の政治姿勢に注意をしていたと言われている。そして、石橋湛山が第55代内閣総理大臣に就任した時、【中共と手を結ぶのではないか】と警戒的だった。当時の政治状況を考えると石橋湛山の内閣総辞職の本当の理由は、アメリカの圧力により内閣総理大臣の座を降りることを余儀なくされたように思うのは、私だけだろうか。石橋湛山は、戦前・戦中を通して、政府の軍国主義政策に反対して、満州事変や5・15事件を鋭く批判した数少ないジャーナリストだった。そのことを想うと湛山の無念が思いやられるのである。

2022年9月10日

Posted by たっちん